概要
・何かを作る事で、その分野の製作物に込められた思いが見えるようになるよ。・思いが見えると、クソな製品・作品からも、込められた希望や愛が見えるというよりも触って実感できるようになるよ。
・ 触って実感できる範囲が拡がると、世界に自分の居場所がある事を思い出せるよ。
詳細
これを書くきっかけ
私の住んでいるけいはんな地区で、アートや科学・技術で何かを作るワークショップをやって、未来に希望をもつ地域づくりをしようというプロジェクトをやろうとしています。そこに対する「何故」の説明をしていたのですが、思いのほか別の場所でも言及する事があったので、今思っている事をまとめました。そのプロジェクトの課題はイノベーションってなかなか起こせないよねという話でした。イノベーションってなんか捉えにくいのですが、なんかワクワクする新しい事・モノぐらいなものに考えましょう。そういうワクワクを作る事に対する教育(?)としてハッカソンとか理系教育をやりますと言う話はよく聞くのですが、肌感覚として本当に製品や技術の供給不足が原因でしょうか?そんな事よりも「欲しいモノがねぇなぁ~」って言ってる消費者のほうがやばくないですか?新しい事に対する消費者不足感ってないですか?「現状でいいよ、(自分にとって)新しい事理解するの面倒だし。」って思ってる人身近にいないですか?もちろんその「現状」に満足しているなら、それはそれでいいんです。ヤバイのは「現状」を諦めてる人。生きてるの辛くないですか?
私の原体験:IVRC/ニコニコ技術部
話が飛びますが、私はモノを作る事で他人を理解する事、そしてその心地よさを感じた原体験を紹介しましょう。IVRC(学生対抗VRコンテスト)は学生が(主に)規模が大きなVR作品を作って体験させるVR学会主催のコンテストです。(余談ですが左の黒い人が筆者で、右はスリムな稲見先生です)
このコンテストでは、各大学のサークル・研究室からチームで参加して、当時は1週間近く泊まり込んで設営作業をして、展示していました。私が参加した2001年当時は今みたいな便利なVR機材がなかったので、かなり手作り感溢れ「まともに動作したら優勝!」ぐらいの時代でした。一応はコンテストなので、建前上は他のチームはライバルです。しかし、みんな苦労して設営してるのはビシビシ伝わってくるし、自分も同じ苦労して作っているので、敵というより不思議と同業者のような仲間な感じがしてきます。これはモノを作る事に特化した話ではないとは思います。しかし、その後他のチームの作ったモノを体験する時が違うのです。配線の固定の仕方一つにしても、「あーココ設営中に断線して苦労したのでこんながっつりとめてるんやね」とか、フレームの剛性足りない中でも動くような涙ぐましい努力が伝わってきたり。部分的に諦めた機構や、それでも頑張って残した表現とかビシビシ伝わってくるのです。
アートの世界ではデッサンは描く技術の訓練じゃなくて、世界を見るための訓練であり「今まで見えてなかったモノ」に気が付くための行為だと言われる事がありますが、IVRCでの作品製作も同じ所があると思います。 (デッサンについては書籍「クリティカル・メイキング」参照)
その後社会人になっても、趣味で色々とくだらないモノを作り続けてるのですが、その中で出会ったのがニコニコ技術部というムーブメントでした。
ネタに載っけて自分の工作を披露する動画です。今でこそMaker Faireなどで単純に作りたいモノを作って、ソレを見に来るという事も有りますが、当時は技術開発系の趣味はそんなに大きな集客があるイベントになるような趣味ではありませんでした。そこに初音ミクというネタに載って工作を披露するという文脈が突然でき、ニコ動の中でもてはやされるようになりました。もちろん純粋にミクへの愛でやっていた人もいるとは思いますが、私はその中に作る事を趣味にしながら、それを旨く共有できなかった人達の寂しさの反動を感じました。
サラリーマン技術者だとよくありますよね、頑張って工夫して、新しい発見もあって色んな経験を経て作ったけど、売り文句は「他社より2割安いです!」かよっていう寂しさ。だからこそ、ニコニコ技術部の初期の動画は作る過程が大事だったし、失敗が大事だったし、コメントを見て次の作品を作っていたような気がします。(異論は認める)
作る事が与える事
上のような原体験から、私は何かを作る事で、それに類似した製作物の影に潜む作者の思いだとかが、見るというよりも生々しく、むしろ触るに近い感覚で理解できると感じています。しかし、これは単にモノを見る時だけの事でしょうか?日々新しいモノをつくりその度に色んな思いを知る事になる。単に機能していただけの世界は、本当は色んな人の思いを基にして作られている。ソレを知る事は意外と重要だと思っています。冒頭の「これを書くきっかけ」に書いたように、例え今はイマイチな世界だとしても、その思いは、そのイマイチを超えた所にある。その気になれば、そのイマイチを次は自分がもっと良いものにしていけるし、そのモノをもっと良くすれば、「思い」もさらに次にすすむ。そんな経験をしている消費者が沢山いる世界は、むしろ生産者vs消費者というキッチリ分けられた典型的な構図というよりも、共同体のメンバーのそれぞれの役回りになれるのではないでしょうか?希望的な思いに過ぎないかもしれませんが、きっとそういう世界では、ブツクサ文句いいつつも、未来は自分のものだという希望を持てるとおもうのです。
世間ではSTEAM教育を職業訓練的に捉える人も居ます。上の観点で私はそれは勿体ないと思っています。そうではなくて、新しいモノ・コトを作ろうとしている奴を心から理解し「そいつぁーロックだな、いっちょのったるか!」というワクワクを作るための教育ができると私は思っているのです。もちろん一つのモノ・コトを作っても理解できる範囲は限られています、教育されるべきは作るコトで見えるようになった体験そのもので、その後で何を見るか、それを見るために何を作るかは各個人が選んでいくコトだと思っています。
作るコトを楽しむ為に
上みたいに「世界を理解するために、作るんですよ。」って教義だけ言われて素直にやるような人はまず居ないと思うんです。人は大昔から即物的に役に立つもの、愚にもつかないもの、いろんなモノやコトをつくって生きてきました。でもその基本には「つくったったで~」というドヤリングがあると思うんです。文化庁の「芸術による社会的包摂ハンドブック」なんかでは自己効力感だとか自己肯定感だとか難しい単語で説明していますが、ぶっちゃけ日々ちょっとしたドヤリングができてる状況だと思ってもそんなに外してないきがします。作るコトでのドヤリングについては、メディアアート界隈がヒントになると思っています。メディアートの基本は「でかい、たくさん、キラキラ」です(怒られる位の異論は認める)。 個人的には「でかい」に注目していて、まずは自分の身長よりデカイものを作ると、簡単なものでもちょっとしたドヤリングに繋がるんじゃないかと思っています(私の中ですら怪しい仮説)。ということで、けいはんな方面ではそういうプロジェクトを今後やっていこうかと思っています。私はできるだけ単純な仕組みをみつけたくて、「でかいモノ」という単純なコトをやろうとしてますが、ニコ技のムーブメントみたいに、そこの社会での文脈にあわせて丁寧に作っていくドヤリングももちろん良いと思っています。
さらに先に
これまでの話で、「作る事」が色んな人が作ってきたこの世界を触るが如く理解・共感し、未来に希望をもつのにつながるんじゃないのか?その「作る事」の入り口としてドヤリングは大切な気がしているという話をしました。未来に希望をもつという各個人に関する事を超えて、他の人を思うという事についてもう少し考えてみたいと思います。コレは参考情報「②芸術による社会的包摂についての解説記事」を是非読んで欲しいのですが、モノを通して思いを知るという事を沢山重ねるというのは、言い換えると「今まで見えなかったけど、行動を起こし考えてみると見えるようになる」経験を積む事だと思います。すなわち世界には見えてないだけで、考えようと思えば考える余地なんて沢山あるという事に気が付くと思います。それを「自然の摂理」について考えれば科学になりますし、「人間にとって自然(世界)の持つ意味」について考えれば芸術の一分野になります。
ともすれば「経済の発展に学問は不要、あんな娯楽は予算ゼロでいいんじゃー。」と極論を述べる人もいます。しかし、上のような経験を積んだ人なら、「本当にそれでいいの?今までの人達の努力や思いの価値はゼロなの?」という疑問をもち、ちゃんと考える事は自然にできるでしょう。考えた上で、切り捨てるのならば仕方ないのですが、考えも共感もなく捨てるのは勿体ないですよね。同じ事は「②」の文章にあるように「合理的排除」される存在についても言えるでしょう。
もちろん、全てを深く考えるほど人間の脳みそは高性能じゃないです。生きるために仕方なく、割り切りも必要です。でも色んな人が、色んな事について、ちょっとだけ深く考えコダワリを持ち、私に理解できないとしても、そんなコダワリや思いが有る事を表面的に理解してる。それを多様性のある社会というじゃないんでしょうか?
社会的包摂は、一人でやればマッチョな頭脳が必要になっちゃいますが、自分が何かしらの思いをもつ事で、他の人が思いを持つ事を許容できる。それだけの事なら凡人でもなんとかできそうな気がします。もちろん、思いを持てば喧嘩は絶えないでしょう、でも「思い」の違いにすぎないという共通理解があれば、安易にあいつは人間じゃない殺してしまえ。という凶暴な結論に安易に繋がる事は無いでしょう。殺してしまえは極端ですが、安易に~~は不要って、ソレをやってる人に向かって言う人は現実にはちょいちょい聞きますよね。 (ま、本当に本人も不要だと思ってるけど、止める理由がないからやってるだけの時もありますが(笑))