2009年5月25日月曜日

ネットに閉じている/開いているっていうのは、実世界体験の生々しさ?



MTM03打ち上げでデイリーポータル(以下Dぽ)Zの人と話していたんだけど、ふと、自分が技術系展示に求めているものにも通じる所があるな~と思ったのでメモ。


Dぽさんでは、「インターネット」に関することは取材しない。何故ならネットでネットで取材しはじめるとネットで閉じてしまうからだと。確かに、Dぽさんの記事は日常にある物を捕らえ直すような記事が多い気がする。まぁ、かなりネタが入るけど。


例えば暗渠(地下に埋没した川)について調べている回とかを例にすると、普段いつも通り過ぎる川は多くの人にとって日常生活において記号化されちゃっているような存在だと思う。その川の自信にことさら興味を持つことはないだろう。しかしその川に繋がる暗渠を探検するとか言い出すと、とたんに記号ではないリアルな存在になってくる。そもそもその川の始点は?終点は?実際に川に降りていく道は?急に具体的な存在になって今まで気にしなかった当然の疑問がわいてくる。


一方ネットに閉じたサービスと言われる物について考えると、所詮はネットなんて通信手段なんで、作り手が居てそこには現実がある。そういう意味では完全に閉じているって言われても微妙なんだけれども、小説と同じでそこは見ないお約束なんだと思う。例えば川があっても、作者がことさら伝えたいわけでないのならば、それは記号のままで居る事がお約束。


そういうのって、言葉が適切だか自信がないんだけど、「体験の生々しさ」なんじゃないのかな?と思う。


つまり、記号は記号のままで居るのがお約束なのか、そこから自分で余計な疑問や好奇心を持てるかとか。


それを振り返ってMTM(Make Tokyo Meeging)を見てみると「生々しい」作品というのが特徴な気がする。


例えば、MTMの作品として近いのはメディアアート作品だと思うのだけれども、メディアアートの所謂展覧会はMTMとは完成度や技術力の話を別にしても「生々しさ」の点で大きく違うと思う。


MTMはMakeの名がつくだけあってその作品を作った本人が来て、そういう物を「作る」事に興味がある人が来ている。そうすると作品として伝えたい本筋はもちろんあるのだけれども、作ると言う展覧会などでは隠されてしまう泥臭い部分も当然の疑問としてでてきたり。何を思って?何がしたくて?という疑問も当然でてくる。断然その作品と作者に対して暗渠探検の川なみの興味が沸いてくるし、さらにその場でその興味を解消する事ができる。これは作品の世界を純粋に楽しむという意味では弊害もあるだろうが、MTMにおいては生々しく作品を体験するという売りになるんじゃないかな。


ま、ここまで長文書いておいて。「だからxxなんだ」というオチは無いんだけどね。


二つの大きく違う世界の楽しみ方かなと思ったのでメモ。





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